水輪書屋

帯解地区と窪之庄町について

 水輪書屋の住所は奈良市窪之庄町です。奈良市域の南端で、南に数分歩くと天理市に入り、また西へ行くと大和郡山市も近いところです。1955年に奈良市に編入されるまでは、添上郡帯解町でした。つまり、戦後すぐに奈良市域となったエリアで、平成の大合併後に奈良市になった新市域ではなく、古くからの奈良市域ということになります。今でもJR帯解駅を中心とする旧帯解町域は、全体で「帯解地区」と呼ばれています。市立帯解小学校の校区と同一です。

 帯解地区は南北方向に旧上ツ道(上街道。京街道などとも)とJR桜井線(万葉まほろば線)が並走し、西北西から東南東にかけては旧伊勢街道(参宮街道、神街道などとも)が通る、古くからの交通の要衝です。江戸時代にはこの二つの街道の交差点を中心とする宿場町として栄えていたそうです。街道は現代の感覚でいうとかなり狭い道なのですが、今でも県道(51号線、187号線)となっています。

 帯解の名は、駅近く、上街道(かみかいどう)に面する華厳宗の古刹、子安山帯解寺(おびとけでら)に由来します。平安時代初期の858年に文徳天皇の勅願によって伽藍が建立されました。1200年近く昔の話です。

 帯解地区には他にも聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基した龍象寺、華道山村御流の家元として知られる山村御所圓照寺門跡などの有名寺院があり、江戸時代の旧村ごとにそれぞれの氏寺などもあります。かつての神仏習合を偲ばせる、神社と隣接した寺院が多いことも特徴的です。

 帯解は奈良の都を出て最初の宿場町であったので、それに隣接し街道が通る窪之庄も純然たる農村、田園地区ではありません。歴史的景観をよく留めていますが、町家造りの商家と豪農邸宅が混在しています。当水輪書屋はその中でも規模の大きい大地主のお屋敷、ということになります。

 参宮街道は窪之庄町内で表街道と裏街道(脇往還)に分かれますが、水輪書屋は脇往還沿い南側に表門があります。今、脇往還は水輪書屋の少し東で行き止まり(車は通れない)になりますが、かつては大名行列も通る賑やかな街道だったといいます。この街道は奈良県道187号線(福住上三橋線)なのですが、「険道」として「酷道マニア」の間では知られた存在となっていて、途中の奈良・天理市境付近は廃道状態となっています。

 帯解地区のほぼ中心に、JR帯解駅があります。東側に登録有形文化財で三島由紀夫の小説にも登場する駅舎があり、改札はそこ一ヶ所です。電化はされていますが単線のローカル線で、今では無人駅ですが、かつては一等待合室もある賑わった駅だったそうです。JR奈良駅から二駅目なので、奈良駅からならすぐに到着します。帯解駅舎保存・活用の会

 駅西側には高台寺池という大変古い歴史を持ち、奈良市でも二番目という大きな溜池があります。大変美しい池で、特に生駒に夕日が沈む頃、夕焼け空は見事なものです。近畿圏には空海(弘法大師)が掘ったと伝わる池が沢山あり、また狭山池をはじめ行基菩薩が作ったという池も多いです。しかし高台寺池は更に古く、聖徳太子が命じて作られたもの、だとされています。その当時から今に至るまで、稗田村(稗田阿礼の出身地か?)が千数百年の時を経てなお、一番最初に水を引く水利権を持っていると聞き、その悠久の歴史にくらくらしました。

 そんなすごいものが何の観光地にもならず、今も農業用水として使われているのにはびっくりです(地元ではようやく「展望台ぐらい作ろうか」という話にはなっています)。貴重な歴史遺産が大量に現存し、当り前に使われているのですから、やはり古都奈良の底力はすさまじいですね。水輪書屋主人は学生時代京都に住んでいたのですが、京都より更に古い奈良という土地、歴史好きにはたまらないです。帯解地区には古墳も数十基あるのですから。

 帯解地区では今市町の帯解駅舎、そして高台寺池西側の環濠集落池田町の内藤邸の二つが国の有形文化財として登録されています。水輪書屋も既に奈良市教育委員会と文化財登録を申請することで合意しています。帯解地区では三例目の登録有形文化財となります。帯解にはまだまだ文化財として登録できそうな古民家が沢山あるので、将来的にはいたるところに文化財建築がある、文化財の街となればいいなと思っています。

 また、奈良市は2024年度から帯解地区でも「まちかど博物館」制度を開始することとなりました。水輪書屋も博物館の一角を占め、不定期ながらもできるだけ公開できる日を増やそうと考えています。「まちかど博物館」というと古民家、歴史的建造物が多いイメージですが、帯解の場合は歴史的建造物は水輪書屋のみからのスタートです。次年度以降、これも増えればいいなと思います。